
ジャーナリストは僕に "始めても大丈夫なのですか?" と訊ねた。- 僕は答えた "そう思うよ" と
昨夜まで、僕は4日前日本に着いて以来、2時間と半しか寝ていなかった。僕は既に6つのコンサートで演奏し、完全に極度の疲労からいつでも病院に行く事が出来た。だが、僕が物事が最悪の状況になりかけたと思ったその時、どうにか僕は、僕がやるのが好きな仕事をする力を得る事が出来たのだ。僕は僕の仕事で最もハードな部分の一つである、数々のインタビューさえこなした!
僕はそれはそれをまとめる能力を僕にあたえてくれる観客、働いてくれる人達、そして僕の素晴らしいクルーの愛だと信じている。僕は決して彼らや僕自身をがっかりさせたくないのだ。殆どのミュージシャンは、この、何も残されていないと感じた時だけ、特別な少しばかりのエネルギーを呼び起こす力を持っている。僕は、僕は自分が気を失うところだと思ったにも関わらず、昨日(力を)引き寄せることが出来た。

僕の3つのインタビューの最後、雑誌HERSの為のものを終える時までに、僕は既に再び元気を回復し始めていた。

僕がバンドの控え室に行くと、彼らは僕の血液を循環させる(元気を回復する)のを助けるパーティをしていた

僕達はCHICの "ハンギン" でショーを始める

"ハンギン" の中で、ホーンズはグルーブを伝える

ユニットは目覚め始めた

フォラミ!!!

ジェリー、ジェリー!!!

そしてガールズが僕の元気を回復させ始める

それはまるで奇跡のようだった - 何故なら、僕は気分が良くなってきたのだから

群衆は反応し、そして僕達はジャム・セッションを本当に始めた!

そして、それはいつものようにファンキーなものだった

"両手を宙に高く挙げて、そしてまるで気にしていないみたいに陽気にやろう" (註:"Rapper's Delight" の歌詞[ライム])

そのショーが終わった後、僕達はそれ(セカンド・ショー)を再び全てやらなくてはならなかった。だが、これで、僕が気分は最高だと感じていたのが分かるだろう

僕はその夜の始めには自分が気を失うところだと思ったほどなのに、セカンド・ショーが始まる迄には最高の気分になっていた

僕の日本の家族の何人かと共に - 昨夜のショーで
僕には何日か続けて体力的そして気分的に良くない日があった。しかし、僕はそれを決して見せず、そしてそれについて決して文句を言わない。僕はこのブログの投稿を知らせる為、そして僕が立ち向かうことを助ける為に使う。僕には立ち向かう為の仕組みとして活かす、沢山の贈り物がある。それらを代表するのは音楽、友達そして家族だ。だが、友達と家族の間の線は曖昧になりはじめている。
僕が世界を旅している時、人々はより近く感じられるように思える。それは僕がガンに襲われた時、人々、そして人生がもっと重要な問題に思われたからだ。僕は答えを待って時間を無駄にしたくない。何故なら、僕はその理由については構わないからだ。僕が唯一気に掛けるのは感性だ。CHICと音楽を演奏している時、あらゆる経験の中の全ての参加者が、"ウィー・アー・ファミリー - 僕達は家族だ" と感じているように僕は感じる。

僕の家族の何人か - ブルーノートにて

The CHIC Organization - 僕達のブルーノート東京の家族と共に

愛を感じることが出来る

セラーン、フォラーミ、そしてキム

僕のギターテックのテリー

ジェリー

僕のブルーノートの家族と盛り上がる

彼は毎年ショーに来る

"エヴリバディ・ダンス!"

偉大な夜の終わりが近い

大きくなる家族

群衆以上の - 彼らは家族だ

バンドが舞台を去った後、その夜の終わりに独奏する

ますます大きくなる家族との写真

更なる家族 - 偉大な夜の終わりが近づく

"チーム・グッド・タイムス" による2012年CHIC日本ツアー・ブックを持つ家族と

ショーの前に人々に話し掛ける
伝説的TV興行主のディック・クラークが昨夜バーナード・エドワーズの16年忌に亡くなった。彼は "アメリカン・バンドスタンド" でのCHICのデビュービデオの中でバーナードの名前を最初に言っている。僕達はその後ディック・クラークの為に何度も務め(出演し)、そして彼はアメリカの大衆の関心を僕達に多く集めた。
昨夜、ディックの訃報が流れだした間、CHICは東京で演奏していた。控えめに言っても、僕らは会場をものにした。僕はディックとバーナードがとても愛したこの曲を、心底エネルギーを回復して演奏した。
CHICは沢山の第二の家を世界中に持っている。そして、東京は世界で最も大きな都市になり、僕達を完全に養子にしたような気がする。これらの写真を見てみて!
"アメリカン・バンドスタンド" でのCHICのデビュービデオ

そして、出番だ!

ディック・クラークがホストを務めた "アメリカン・バンドスタンド"

ファンの一人が持ってで来たナードのソロ・レコードを抱える

フォラミが群衆と共に ”ライク・ア・ヴァージン” を歌う

“ウィー・アー・ファミリー” の真ん中で群集と共に、カデンツァを剥ぎ取る(吸い出す、カデンツァ部が開始される)ようにキムに請い願う

リッチと僕が ”エヴリバディ・ダンス” をデュエットしている(キーボードとギターによる間奏部)

セット開始時のCHIC 、”ハンギン” を演奏しながら群衆の中を歩いて通る

新しい日本のナイル・ロジャーズTシャツの模様

僕は何人かのシャイな日本の人たちを掴み(舞台に上げて)、彼らに僕達と “ル・フリーク(フリーキーなダンス)” をさせた(註:この時に実際に演奏されたのは "Good Times")

君が次に知るのは、一人のイカした奴が歌い始めるという事だ

東京の僕のベッドからの眺め
今夜、僕は日本のここ東京でベッドに横たわっている。僕はバーナードが1996年4月に亡くなった同じ時刻にまだ起きていた。日本での僕達の今年最初のショーが、その同じ日である事に感慨を覚える。バーナードと僕はかつて、"ショー・マスト・ゴー・オン - ショーを続けなくては" といつも言っていた。そして、僕は今日もまだその哲学を信じている。
去年のこの時期、僕は急性前立腺癌の手術後最初のショー(の演奏)をした。医師は、僕がそれをやれるか確かではなかった。しかし、チーム全体は体力的、精神的そして霊的に一生懸命努めた。
一年が過ぎ、僕はより元気になった。正直なところ、僕はどれほど僕が元気か信じられない位だ。まるで僕が新しい人生を得ているようなものだ。僕自身の立場の暗喩である曲が偶然にもある、ミュージカルを作曲している。それは "スタート・アゲイン - 再び始める" というものだ。
僕が手術を受けた時、ガンはとても悪性で、僕は死が迫っていると信じていた。多分、「Mr.死」は振り返って、"ショー・マスト・ゴー・オン - ショーを続けなくては" と言ったんだ。

2011年4月18日 - 僕は、バーナードに捧げる、ファンが運んできてくれた写真を抱えている

僕 - 手術の日に

1980年オリジナルのCHICのTシャツを着た数日前の僕。僕が生きている限り、ショー・マスト・ゴー・オン! - ショーを続けなくては!

ラバマ・シェークスピア・フェスティバルのコンサートでの朗読劇の為の "スタート・アゲイン - 再び始める" の譜面

ナイルとナード96年4月武道館にて - バーナードの最後のショー

多分、「Mr.死」は振り返って、「ショー・マスト・ゴー・オン - ショーを続けなくては」と言ったんだ

ナイル・ロジャーズ & CHIC - ブルーノート東京にて
昨日、僕はNYCから日本への世界の半分に亘る僕の旅を始めた。14時間を空の上で過ごす。アダム・ランバートのチームは僕が彼とサム・スパローと共に行った “Shady” を含む、彼の次のアルバムのオーディオ・クリップを公開した。その反応は素晴らしいものだ。君達が全部(の事、曲)を聞くまでちょっと待って!
今からちょっと僕は休むが、僕がブルーノート東京でのギグの週の為に用意が出来た時、明日のブログで皆に追いつくつもりだ。

この数年は、僕達はギターが賞品の楽しくファンキーなコンテストを主催している

ブルーノート東京で演奏することは、習わしになった

僕は、沢山の友人達に会うのを楽しみにしている

君がこれを読んでいるなら、僕は多分日本へむかって飛んでいるところだ
君がこれを読んでいるなら、僕は多分日本へむかって飛んでいるところだ。これは僕の好きな、あちらでの毎年の時期だ。殆どどこででも、桜の花を見ることが出来る。この年に一度の旅行は、僕達にとって何か習わしになってきた。そして、ブルー・ノート東京での演奏も。僕達はそこで演奏をするのが好きだ。何故なら、僕達はこの寛げるナイトクラブのセッティングの中で、違った音楽を試しているのだ。この数年は、僕達はギターが賞品の楽しくファンキーなコンテストを主催している。
僕は家族(僕の名付け子のお母さんは沖縄にいる)と同様、沢山の友人達、そして近親者のように感じるブルー・ノート東京のプロフェッショナルなスタッフ達にも会えるのを楽しみにしている。近親者と言えば、そこにいる間、僕は以前のパワー・ステーションのヴォーカリスト、マイケル・デ・バレスとデュラン・デュランのサイモン・ル・ボンと会うチャンスがあると思う。(*マイケルは85年のライヴに参加したヴォーカリスト)

殆どどこででも、桜の花を見ることが出来る

この数年は、僕達はギターが賞品の楽しくファンキーなコンテストを主催している

音楽カセット(覚えているかい?)の為の、日本の印刷広告。どれだけ長い間僕が日本に行っているかだ

ブルー・ノート東京で演奏することは、習わしになった

僕は、沢山の友人達に会うのを楽しみにしている

ブルー・ノート東京のプロフェッショナルなスタッフ達と、やはり彼らを好きな僕の親愛なる友人、アンジェリーク・キジョー

遠い昔、マイケル・デ・バレスと

遠い昔、サイモン・ル・ボンと

AC/DCのメンバー全員とアーノルド・シュワルツェネッガーにサインされた1980年ギブソンSG - どれが誰のものか分かるか試してみて
昨日、薄暗い朝の光が窓を通して輝いている時、僕は滅多に演奏しない僕のギターの一つを手に取った。それを弾き始めるやいなや、僕はそれが古く錆びた糸であるにも関わらず、何と偉大に感じられることかと気付いた。僕は明かりを点け、そして何故それをそんなに弾いていないのか気付いた。それはあるイベントを記念する為、偉大なアーティスト達によって沢山のサインをされたギターの一つだったのだ。僕はユニークなイベントに参加する度ギターにサインを集めるのだ。
何人かの人はサインをされたギターを好まない。だが、僕はそれらがとても美しいものだと思う。それらがどう見えるかを僕が好きだからというだけではなく、彼らが表す出来事と人々の為なのだ。僕にとって、これらのギター全てが誇らしくラベリングされたギターのポルノとなるに十分な程、セクシーなのだ。

ビートルズ・トリビュートの際僕が演奏した後、スティング、レニー・クラヴィッツ、そして他によりサインされたリッケンバッカー12弦

ハービー·ハンコック、アンジェリーク・キジョー、ジョン·マクラフリン、ウェイン·ショ
ーター、カルロス·サンタナそしてラヴィ·コルトレーンによってサインされたトーカイ・ストラット

グラミー賞のTV放送時、僕達が共に演奏した時、エアロスミスのスティーブン·タイラーそしてジョー・ペリーによってサインされたフェンダー・テレキャスター

これらは本当に、他の沢山のパペット(人形)や漫画のキャラクターと同じく、エルモ、ビッグバードそしてオスカーの実際のサインだ。

僕の超貴重なフェンダー・カスタムショップのヒットメーカー・ストラットの一つ-スティーヴ・ウィンウッド、スティーヴィー·ニックス、キッド·ロック、ロバート·プラントそして他の沢山(の人々)によってサインされたもの

ブルース・スプリングスティーンそしてEストリート・バンド全員によってサインされたギブソンLPジュニア

大スターたち全てによってサインされたレインフォレスト(基金コンサート)のバックアップ・ギター

レインフォレストのクローズアップ-デビー・ハリー、メアリー・J.ブライジ、レディー・ガガのサイン

僕のゴールドそしてプラチナレコードと賞のほんの少しだけ
賞と賞賛は僕が何故行うのか、何を行うのかという動機ではない。何を僕が行うかというと、せざるを得ないから行うのだ。僕は全く音楽を作らざるをえないのだ。何故ならそれが、人間として僕が何者であるかを定義する主要な特徴の一つだからだ。賞と賞賛は僕が良い仕事をした時に生じる、ただの付加的恩恵だ。僕は仕事をするのが好きだし、一緒に働く人々が好きだ。
昨日、僕は一流雑誌のNMEから(彼らによる)今までで最高の50人のプロデューサー をリスト化した一つの文章を送られた。そのリストに載るのは素敵なことだし、僕がそのトップ5に入る価値があると彼らが信じているのは嬉しいことだ。僕は、彼らがその文章の中に言及したその僕の記録のリストを読んだ時、僕はこんなに沢山の素晴らしいアーティスト達と演奏して来たなんて、なんと幸運なのだろう、と思った。
僕はプロデューサーであり作曲家であるかもしれないが、僕はまたギタリストでもある。 僕は幅広い領域に亘る何百ものアーティスト達と演奏してきた。: ほんの数例を挙げると 、ニーナ·シモン、フィービー·スノウ、ビリー・ジョエル、ビヨンセ、ブルース·スプリングスティーン、ブルーノ·マーズ、アダム・レヴィーン、アダム・ランバート、ハービー·ハンコック、ボニー·レイット、ウェイン·ショーター、ストレイ·キャッツ、ジョン·マクラフリン、マーカス·ミラー、デイヴ·リー·ロス、カルロス·サンタナ、レニー·クラヴィッツ、スティービー·ワンダー、ライオネル・リッチー、ビッグ・アンド・リッチ、イディナ・メンツェル、エルヴィス·コステロ、ビーバス・アンド・バットヘッド、ビッグバード・アンド・バーニー、ホール・アンド・オーツ、そしてメリル·ストリープ。


作曲にスタジオで取り組んでいる
僕の人生の平均的な日の中で、僕は沢山の素晴らしいことをし、昨日はその例外ではなかった。僕自身の作曲そして作品をスタジオで扱った。僕は7月13日の僕がその夜に演奏し監督をする、モントルー・ジャズ・フェスティバルの為のアーティスト達のラインナップとショーの進行を準備した。僕はまた、2つの電話会議をし、ローリング・ストーンズ・マガジンとインタビューをした。それはアダム・ランバートの曲 "Shady" についてだった。僕はこの曲を何ヶ月か前に演奏した。
そのジャーナリストはアダムと仕事をするのはどんな感じかを知りたがった。僕は彼に、アダムと仕事をするのは快適で、同時に必死だと説明した。"必死? " 彼は訊いた。"どんな風に? " と。僕は "僕達には互いのスケジュールの為、ほんの数時間だけしかなかったんだ" と言った。アダムもそうだったように、僕は翌日街を離れることになっていた。時間は僕達の敵であり、しかし僕達には選択肢はなかったから、アバター・スタジオを予約し、とにかく行って、やったのだ。
アダムはプロで、そして集中していた。しかしまた、彼は僕に僕のやり方で曲を解釈するのを許してくれた。僕がしたいように演奏した後、僕達は幾つかの別のアイデアで協働し た。そして、僕はアダム・ランバートの曲 "Shady" で一緒にジャム・セッションをし、アドリブ演奏をした。

MJFのCEOであるクロード・ノブズが僕にコーヒー・テーブルでモントルー・ジャズ・フェスティバルについての本を見せている

ローリング・ストーン・マガジン

アダム・ランバートと "Shady" を演奏している僕

アダムと仕事をするのは快適で、同時に必死だ

アダムはプロで、そして集中していた。しかしまた、彼は僕に僕のやり方で曲を解釈するのを許してくれた

僕がしたいように演奏した後、僕達は幾つかの別のアイデアで協働した

そして、僕はアダム・ランバートの曲 "Shady" で一緒にジャム・セッションをし、アドリブ演奏をした

96年武道館での僕とナード - バーナードの最後のショー
来週、僕は日本へ向かう。僕はブルー・ノート東京で演奏する。僕は、毎年4月に僕の長い間のパートナーであったバーナード・エドワーズの死を偲ぶ為に行く。僕達は1996年4月、東京で僕達の最後のショーを共に行った。
次のドキュメンタリーには彼の死の数時間前となる、バーナードの最後の映像がある。そのフィルムはレノン/マッカートニーの歌で、彼らの最後の共同作業そして僕の最後のバーナードとの共同作業のシンボルである "Let It Be" で始まる。
18ヶ月前、僕はかなりの進行性の癌に襲われた。それは僕の - そして僕の前パートナーの- 人生を見直させることとなった。これを最後に投稿する時、僕はデジャヴの2つの出来事を経験した。
昨夜、僕はバーナードについての迫力のある夢を見た。そして、僕はこのフィルムを再投稿するべきだ、と思った。これはWOWOWの為のTVスペシャルで、僕の人生とバーナードの日本での死に焦点を当てている、Br@inによって製作されたものだ。どうぞ見て欲しい。それは日本語と英語のものだ。全ての単語は理解出来ないだろうが、全ての感情を理解するだろう。


WOWOW TV - 日本
ドキュメンタリー: ナイル・ロジャーズ
長さ:43:45
形式: NTSC 16:9

このジャーナリストは僕とバーナードを彼の死の前日にインタビューした(訳註:鈴木しょう治氏。写真は昨年のもの)

吉田兄弟(三味線の名手)と僕 - 昨年

僕とポップスター/声優の平野綾 - ブルー・ノート東京の舞台裏にて

昨年4月の日本のスッキリ!TVでのCHICのライブ

昨年4月東京にて、僕の以前のパートナーであったバーナード・エドワーズの死を偲ぶ